昭和43年7月11日 夜の御理解
御理解28節にこうあります、「病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは井戸がえをするのに、八、九分かえて、退屈してやめれば、掃除はできぬ、それでやはり水は濁っているようなもので、信心も途中でやめれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れるまで、一心にまめで繁盛するよう元気な心で信心せよ」とこう、この御理解の中から色々感じられることですけれども、え~、お互い様々難儀の元と言うかね、難儀の、いわゆる根本、ね、それをお道ではめぐりと言う、そういうそのめぐりのお取り払いを頂いて初めて丁度井戸が清水になって、そこから尽きぬ水が頂けれるように、尽きぬおかげの頂けれる、元が出来るのです、ですから、え~、退屈して、「これだけ信心するのに」といったようなことで、止めてしまえば、丁度井戸がえをするのに、七分八分で止めるようなもので、何時までたっても「水は濁っておるようなものじゃ」と、ここんところに今信心辛抱がいるんですがね、私ここんところ只今頂いてから、今日お取り次ぎさして頂いた、あの熊本の日奈久教会の富永先生が、あぁ奥さんの方が今日お参りしてみえた、丁度一時の御祈念前に参ってきて、まあ大変おかげを受けておるようにおられましたが、ご承知のようにあっちはあの、先生あの大変な病人ですからね、もう体、も~う何ち言うでしょうかね、もう内蔵の全部が病気だと、で最近でこの脾臓がはれて、もうこう座っておくのも、きついぐらいにある、それをようやくこの十日の月次祭をもうそれこそ必死の思いで奉仕させて頂いた、「とにかくもうもうもてんごとあるから、とにかく合楽に行ってお願い行ってくれ」とこう言うので、奥さん今日参ってきたんです、でまあ色々、あの、お取り次ぎさして頂いたんですけれども、お~、先生その、お~、昨日ですね、御結界でその、富永先生、こう一生懸命奉仕をしておられたこうやって座っておられた、そしてその、っとここでその眠ったっち、眠った時にその御心眼とも御神夢とも分からんけれども、そのお夢を頂いた、それが丁度ここであの、御月次祭の時につけるあの教衣ですね、あれは教衣と言うてあの、お~、お説教をする時に、あの着るあれは、あぁ衣装なんです、あの教衣を自分がつけてね、御結界に座っておるところを頂いたんです、ね、そしたら次にね大きな茶碗に御飯がいっ、こうついであるところを頂いたというのです、ね、ほれで、「どういうことじゃろうか今日お参りさして頂いてから親先生にお伺いしてくれ」とこう言うのである、私はもうそれを聞いてから「富永先生有り難いなぁ」って私は申しました、それはお道の教師にも志さなければならんものは、その今日のここにあるように、もうそれこそやはり大変な難儀、言わばも~う、めぐりの深い人でなからなければ、お道の教師なんか出来やせんって、私共でもそうであった、とても、お~人一倍の難儀の元である難儀を、もう根限りまあさして頂いた、けれどもまあ信心さして頂いておるおかげで、信心しておる内にめぐりのお取り払いが段々頂けてきた、「どうしてこれだけ信心するのにこのような事が起ってくるだろうか」とは自分が思いよるのじゃない人が思うくらいには続いた、「大坪さん所はもうあれだけ一家中で信心してござるとに、どうしてああいう難儀が続くか」という、ねけれども、まっそこんところがやっぱ日頃の信心、長い信心のおかげでですね、ね、「これはまだその自分の信心が足りぬからだ」と一心と信心を続けて行けば、そこからおかげが受けられるとおっしゃるように、その、それにへこたれずに、言わば信心さして頂いた、ね、そして家族中の者が一生懸命にまあ言うならばめぐりのお取り払いのために難儀と戦っておかげを頂いた今日になった、そして、え~、その私のその言わばめぐりのお取り払い時代とでも申しましょうか、ね、その難儀の魂魄の続いておる時代にです、ね、その信心がですみんなここでこれだけ沢山の人がおかげを受けておる元になっておるのです、原動力になってるんです、ね、「私はあん時にはこういう風にしておかげを受けた」「私はこういうところをこうして辛抱しぬいた」「こういう時にはこう」と例えばその難儀な事の一つ一つ乗り越えて行くと言うか、めぐりのお取り払いを頂いて行くとその、ん~、その時の私は、あ~、言わば、体験というものがです、ね、ここで沢山の人が助かって行く元になっておる、富永、富永先生も、「もう俺はこれでもう難しか」と、「もう俺はどうしてこれでやられる」と、やはり時折はもう思わにゃおられんようにきついらしいです、ね、だからですそのことを話しさして頂いて、教衣と言やぁね、人にお話しをするお説教をする、しかも御結界で人にこうやってお取り次ぎをさして頂くと、それにねただ人から聞いた話しどんするようなこっじゃぁつまらんって、お徳を受けて神様から直々頂けれるようなおかげを頂かなければならんと同時に、それとてもねやはり自分の信心体験というものが土台なんだ、言うなら人が助かる事のための、人が助かる事のための、言わば元入れがあっておるようなもんだ、商売で言うならば、元入れのようなもんだ、ね、それは、目にはもう医者が見たらもう絶対助かるはずのない病人ですよね、富永先生というのは、ですから、まあ神様の御用は努めておられれば、神様が御用に使うて下さって、まあ死ぬか生きるかと言うごたるその状態の中にやはりお取り次ぎが出けておる、二つも教師の資格を持っておられるから、十何年ぶりここにお引き寄せを頂かれるようになってから、初めて教会の総代が出来、役員が出来ましたから、ようやく布教所から教会のおかげを頂かれた、ところが自分の身の上にはそういう難儀が続き、続いておるということ、ね、「もう今度は俺は難しかろう」と言うごたるところに、例えば御結界奉仕しながら頂いたのが、その教衣を着けておるところを御神夢の中に頂いた、座りながら、そしたら次に大きな丼に、白い御飯がいっぱいついであるところを頂いた、ね、お道の教師と言えばです、ね、人に話しを伝えて行くのが、ね、お取り次ぎをさして頂くなら、お道の教師のしっ、のお~御用なんだ、それをね、ただ学校で習うてきた、本で読んだといったようなことで助かるもんかと、自分が自身が死ぬか生きるか、食うか食われるかといったところ通らして頂いてそれを一つ一つおかげにしてきたという体験があるから強いんだ、確信を持っておかげが頂けれると、私根限りの、例えばうんなら貧乏してきた、もうそれこそそれは根限りの貧乏であった、だからこそここではね、どんなに経済で「もう手を上げた」「もう駄目だ」と人が助かっておるでしょうが、私がたすっ、私が言う通りすりゃ助かると、おかげが頂けれると、私はこれは確信を持ってるから、こういうなかですけれども、ここではねほとんどが商売人、事業する人がほとんどです、ね、こういう例えば田んぼの真ん中にあってからお百姓さんと言やぁ何人かしかありません、ね、これは結局まあ類は類を持って集まるのであり、また私の持っておる体験を神様は生かして下さるのだ、と同じように富永先生、あんたん所の先生は、そういう根限りの病気をさして頂いてああいう、言うならもう医者が、棒にも端にもかからんほどの様子がある、ね、おかげを頂いて助かったという事になる時に、あんたん所ではどれだけの病人が助かって行くやら分からん、その元をね、今こそ頂きよりなさる時なんだ、ね、お丼に白い御飯がいっぱいついであるというのはね、必ずままになるということだと私(笑のせいで何を言われたか・・・・・・・)今日も一生懸命に参ってきちゃったって、(?)先生がですね、それだけの修行をして頂きよるとということはですね、私が気が付かなかったです、もう自分が(?)でですね「もう内の先生はもう難しかろう」と、ね、だから、もう亡くなられたなら自分が教会長の資格は持っておるけれども、教師の資格は持っておるけれども、「どうしようか、どうなるじゃとうか」ということばっかりじゃった、ところが内の先生はそういう、沢山の難儀な病人が助かることのためにね、そういう元入れ、言うならば富永なら富永の家のめぐりのお取り払いのために根限り戦いござる、ここが素晴らしいですね、良いですか、めぐりのお互いお取り払いのために一生懸命の信心が出来る、それは言うならば天地に対する借金払いのようなもんだと、ね、けれどもそれはいかにもなら一万円なら一万円の借金を払うてしまう時に初めて借金払いが出来るけれども、借金払いが出けて暁に感じる事はです、そこにはもう一万円の貯金が出けておったということが気づきます、何故そうでしょうが、ね、一生懸命お取り払いのために信心修行さして頂いて、言わば難儀をさして頂いたけれども、それがああた、元入れになっとるっちゃもん、それがこれから、例えば富永、富永一家の、お~おかげになっていく土台であり、それだけじゃない、富永の所へ集まってくる言わば信者氏子がまあどれだけこれから助かっていくようになるか分からない、これはね教師だけの事じゃないです、信心さして頂く者でもです、ね、お互いがね、「どうして内はこんなに芽が出らんだろうか」と「どうしてこんなに難儀が続くであろうか」と、いう時にはまだ信心なしとるけれどもね、いわゆるめぐり、言わばいくらくんでもくんでもまぁだめぐりのお取り払いが頂けていないと、ね、泥水のようなものが出ておる時なんだから、一人で例えば井戸がえをするよりも三人、三人で井戸がえをするよりも、五人家族がおるなら五人の者が勢を揃えて、信心さして頂いたら、それだけお取り払いの、言わば量も、おかげが頂けれる道理であって、一人で持ち上がらん石でも、大勢が掛け声を、掛け声を揃えて持ち上げれば、持ち上がるような道理じゃとおっしゃる、その道理にいたったところのおかげが受けられる、ね、しかも「これほどの信心さしてもらうのに」と思うくらいに、例えば難儀が良し続いてもです、それが決して無駄にはならんと、私は今日のここの御理解28節の中からそこんところを皆さんが一つ分かって頂きたいと思うですね、一生懸命井戸洗いをさして頂きよる、その努力がですね、その後の、どのくらい生きていく上の力になり、人が助かっていくことのための力になり、ね、それが徳になり、ね、あの世にも持ってゆけこの世にも残しておけるというようにです、ね、子供にも孫にも、ね、井戸洗いの出けた、どこまでも尽きぬおかげの湧いてくるようなおかげを残しておけれる、私はそれ基礎になる元になるのだと、ね、ここんところの道理を一つ分からして頂いてですね、信心を本気でさしてもらわにゃいけんと、ね、私今日富永先生のお取り次ぎをさして頂いてから、はぁ本当にこれは、あ~、私がここで皆さんにも言うように、ね、ここに百人の信者が集まってくるなら、その百人全部が取り次ぎ者の気持ちでと私は言うとるです、ね、銘々が本当にそういうようなおかげを受けて、それが人に伝えられて、そこにまた難儀な人が助かっていくおかげ、ね、そういうおかげを頂いて行く意味合いにおいてもです、この難儀この修行は決して無駄にはならん、ね、それが必ずままになる、元になる、ね、ままになるということは、おかげを頂くいわゆる元になるのだと、言うようにね、一つ、う~、分からして頂いて、しっかり信心辛抱さして頂かにゃいかん、信心辛抱しておるということはね、ただね苦しいのを歯くいしばっておるようなもんじゃないです、信心辛抱さして頂いておる有り難さというものはね、そこから信心辛抱さして頂かなければ分からない、信心の喜びというものが、または楽しみというものを感じさしてもらい、またはそれを頂かして頂きながらの辛抱だから、信心辛抱はとても有り難いのですよ、ね、そこんところを一つ頂いとかにゃいかんですね。 どうぞ。